三島町の伝説の中ではおそらく最も古く、また由緒もあるのが、この伝説ではないか、と思われます。
 『今昔物語集』、『古今著聞集』、『元亨釈書』、『大日本国法華験記』などに記述のある、有名な伝説、「猿供養寺」。あるいは、読んだことがある方もあるかもしれませんが、それがこの三島の地にあった、と言われています。
 今回はその跡、「経塚」、「猿塚」を訪ねます。

 伝説の概略は、こんな感じです。

 猿塚・経塚の地図

 昔越後國三島郡乙寺に比丘がいて、毎日法華経を読んでいた。ある日二匹の猿が庭の木へ来てお経を聞いていた。それから毎朝来て夕方帰っていく。ある日比丘は猿のそばへ行って、汝は毎日毎日来るがお経を覚えたいのか、それなら教えてやろうといったら猿は頭を横に振った。そこで比丘はお経を書いてもらいたいのかといったら、猿は喜んで山へ帰り、後日、薄くやわらかい木の皮を山のように持ってきた。比丘は大いに感心してその木の皮に法華経を写してやり始めた。
 その日から猿は種種の山の幸を持ってくるようになったが、ある日からふつと猿が来なくなった。比丘が何かあったのかと心配して探して山を歩いていると、頭を地の中に突っ込んで二匹並んで死んでいた。比丘は気の毒に思って猿を供養してやったが、木の皮の経は途中までで完成しないまま、しまっておいた。
 それから四十年ばかり後、ある日身分の高い夫婦がこの寺を訪ねてきた。この寺には書き終らない法華経があるはずだ、という。このとき八十を越えた比丘が、二匹の猿に写しかけた物がある、と答えた。すると二人は大いに喜び、実は自分たちはそのときの猿だ、という。比丘の法華経に菩提心を起こし、経を写してもらったがためにこうして人間となり、越後の太守という貴い身分まで得て東へ下ってきた次第だ。ぜひ未完の経を書き上げて欲しいと。まもなくして写し終わったという話である。

 今昔物語集の成立が1120年ごろとされており、少なくともこの頃には知られた物語であった様子から、この伝説の成立は少なくとも平安中期か、それ以前であろうと考えられます。
 この時代にはすでに今の三島の土地は「吉川荘」として、また、「三島郡」という地域もすでにこのときはっきりと記録にあり、今の大字名のいくつかかすでに見られます。後で詳しく書きますが、つまり、この土地は伝説を成立させる第一要因はクリアしている、ということです。

 また、「乙寺」ですが、この寺は、天平8年(736)に聖武天皇の勅命で行基、婆羅門僧正により開山、寺名の「乙」は釈迦の左目の事を指し、「甲」である右目は中国に納められているということです。
 その後、後白河天皇(1155〜1158、この場合は12世紀後半とアバウトに捉えるのが正しい?)に仏舎利を収める金塔と「乙宝寺」という寺号を賜っています。応永30年(1423)には蒲原郡・黒川の館にあり、という記録があり、中世には上杉氏、村上氏の尊崇篤く、元和5年(1619)建立の三重塔が残っており、これは国宝に指定されています。また、江戸時代に作られた乙宝寺縁起絵巻も伝えています。
 実に由緒正しい、非常に格式の高いお寺であるといえます。
 ただ、もちろんのこと、現在、三島上条にそんなお寺はありません。

 はたして、伝説の実態とその真偽は?
 案の定というかドツボにはまる、伝説を訪ねる旅の始まりです。

猿塚・経塚 猿供養寺伝説

乙寺_1

 これがこれから向かう山です。
 実際にはここからは見えませんが、あの頂きのすぐ向こう側がそう・・・であるはず。
 梅雨の合間を縫っての探索で、この日も雨が降りそうな気配の空を気にしながらの自転車行です。

乙寺_2

乙寺_3

 脇野町、気比ノ宮からの三島上条の入り口になる、「幣振り坂」。
 その途中に、ひとつめの目標があります。

乙寺_4

乙寺_5

乙寺_6

 わき道のちょっとした坂の隅にちょこんとある石塔。
 これが経塚、猿塚への入り口を示してくれています。
 「機よう塚 さる塚  道」と彫ってあります。ここを登っていくと、塚があるはずです。
 ・・・例のごとく、道は地図上では確認できませんが・・・。それでも、以外に手入れがなされています。これは、期待していいのかな・・・?

乙寺_8

乙寺_7

乙寺_9

 きれいに刈り払われた道が登っていきます。くもの巣がうざい以外は概ね順調。
 とちゅうでモミジイチゴがなっているのを見つけました。木苺系ではこれが一番美味しいです。次がクマイチゴ。赤い実のやつです。美味しくないのがニガイチゴ。赤い実なのはクマイチゴと同じですが、こちらは実がいびつで小ぶり。果肉はそうでもないのですが、種が苦いんです。
 そんなこんなで鉄塔の下に出ました。
 ・・・ヤな予感ー。

 案の定、ここで道は急に折れ曲がり、下っていきます。

乙寺_10

 やっぱりー!
 尾根から下りて、谷あいの田んぼに出てしまいました。
 もちろんあたりにそれらしい道は無し。これより上も田んぼだったんでしょうけど、今は荒れ果ててススキなんかがうっそうと茂っています。
 一応戻って道が折れ曲がるあたりを調べてみますが、それらしい跡も見当たりません。ヤブがあるのみ。ヤブがなければもしかしたら何とか踏み跡がわかるのかもしれませんが・・・なんにせよ上までたどり着けるとも思えません。

 やはりきれいに刈り払われていたのはあの鉄塔のためだったのかー。
 幾度となく、この鉄塔への保守道にだまされてきましたが、今回またしてもー。

乙寺_11

 正規のルートを断たれてしまった以上、今回は探索終了――というわけにはもちろんいきません。
 実はこの塚の事を知ったのはこちらの林道を通っていた時。
 まさに偶然に通りがかり、なんだろう??と思って調べ始めたのが事の起こりでした。
 でも、できればこっちは避けたかった・・・。

乙寺_12

乙寺_13

 何しろキツイ!きちんと舗装されているとはいえ林道だけあって勾配が容赦ありません。ぐいぐいと登っていきます。

 のぼりの途中ではホタルブクロが咲いていました。
 よく似ている物にヤマホタルブクロがありますが、見分け方はガクの先っぽが反り返っているかどうか。反り返っていればホタルブクロ、反り返っていなければヤマホタルブクロ。
 ・・・ええ、非常に微妙です。よく惑わされます。ただ、見分け方を覚えても、ヤマのほうは中部地方を中心に分布してるので、役に立つかは微妙です。

乙寺_14

 そんなこんなでやっと入り口にたどり着きました。
 ここも鉄塔の保守のためにきれいに草が刈られています。

乙寺_15

 その鉄塔。
 先ほどの鉄塔の隣の隣。

 ・・・・・・このとき気付ければよかったのですが、ご覧の通り、レンズが曇ってます。レンズを思いっきり触ってそのままにしていたため、これから後の写真はずっと写りがぼんやりしてます。
 帰ってきてモニターで見て愕然としましたよ。
 買ったばっかなのに(中古だけど)もうダメなのかー!って。これが2代目のデジカメでの初探査だったんですけど、ちょっと途方にくれました。
 レンズについてた脂をきっちり落としたらちゃんと写るようになりましたけどね。
 一応、ひどい物にはシャープ処理をしてありますが・・・やっぱりたかが知れてますね・・・。

乙寺_16

 鉄塔からは刈り払われていないため急にうっそうとした感じになります。
 が、ヤブというわけではなく、植林されたスギがおいしげっているために、逆に幾分すっきりとしています。

 しばらく登ると、右下に沼が見えます。
 これが「稚児池」です。
 でも、こちらは後にして、とりあえず塚を目指します。

乙寺_17

 稚児池が見えるあたりは尾根状に盛り上がった地形をしており、そこを進んでいくのですが、すぐに急なのぼりになります。
 そう、そののぼりはもう塚の一部。かなりの大きさです。

 坂を登りきると・・・。

乙寺_18

 うわっちゃー。
 倒れてます。

 おそらく中越地震で倒れたのでしょうが、そのままになっているようです。
 復興もここまでは及ばないようで・・・、寂しいというか残念ですね。

 言いそびれましたが、こちらが猿塚。
 山で死んでいた猿を弔った、といわれる場所です。

乙寺_19

 石塔そのものはかなりしっかりした物であることが分かります。
 樹林の下だからでしょうか、風化がほとんどなく文字もしっかりと読めます。

乙寺_20

 台になっていた石が北東方向に1メートル以上はなれたところまでずれてきています。
 そのすぐ先は急勾配。その下は・・・、不自然に平らになっています。
 これはもしや、乙寺の堂宇が建っていたところ・・・?

乙寺_21

乙寺_22

 猿塚を後に、次の経塚に向かいます。一度塚を少し下り、さらに高い塚を登ります。
 右手方向をみると、えぐり取ったように平らになっている部分がよく分かります。逆に左側はどうかといえば、こちらは普通の斜面。
 この部分も、尾根状に塚がつながっています。

乙寺_23

 少し登るとすぐに頂上に。その上には明確に土が盛られている様子がわかります。
 この頂きそのものが塚なのか、それとも頂きの上に塚を作ったのか・・・。地形を利用して作ってあるようですが、地形を測量するとかしないと区別するのは難しそうです。

 さて、石塔は・・・。

乙寺_24

 あちゃぽー。やっぱり倒れてます。
 こちらは猿塚とは少しつくりが違っていて、石で大きな台座を築く、ということはしてありません。

 こちらはお猿さんに書いてあげたお経を埋めた場所。
 ・・・だと思います。
 よくよく考えてみれば、お経を埋めた、とは説話の中には書いてないんですよね。
 伝説とは直接に関係ない、猿供養のための物なのかもしれません。

乙寺_25

 こちらも風化はほとんど無く、きれいな状態です。

 ここで少し、この猿塚、経塚の説明をしておきましょう。

 実はこの石塔自体の歴史はそう古い物ではなく、江戸末期の文久元年(1861)、幕府代官所出雲崎陣屋の川合清蔵という侍が、七日市村の大庄屋山田権左ェ門から猿供養寺伝説を聞いて大きく心を動かされ、この伝説を調査し、ここに相違ないとして記念にこの石塔を立てた、というものです。
 実際、よく見ると、「山田」「川合」の苗字が読み取れます。刻まれている字の名前の方は「号」で、それぞれ、山田無窮、川合寛敬。
 この石塔が立てられた時点で、今昔物語から700年、物語の成立からは800年が経っていたことになります。

 果たしてこのお侍さんがどのような調査をしたのか、それは知る由もないのですが・・・・・・。

乙寺_26

乙寺_27

 その向こうは・・・、平らだ。
 明らかにならしたとわかる地形です。
 面積もそれなりで、平らな部分だけでも100坪はあるでしょうか。微妙なくぼみや段があったりして、何らかの意味がある地形、と考えることが出来そうです。

乙寺_28

 こちらは反対側の斜面。本来ならこのような斜面であろうと思われます。

 さて、それだけならすごいねぇ、ってだけで終わるのですが、もちろん、ことはそんなに単純ではありません。
 実際にはどうであったか。どうであるのか。
 少し詳しく掘り下げていって見ましょう。

 猿供養伝説のあらましは冒頭で紹介しましたが、伝説は、この三島上条だけでなく、他の地にもあります。
 関係するのは、次の通り。

1.胎内市(旧・北蒲原郡中条町)乙 乙宝寺
2.上越市板倉区(旧・中頚城郡板倉町)旧・猿供養寺村 猿供養寺
3.三島郡出雲崎町 乙茂 口碑のみが伝わっています。
4.長岡市(旧・三島郡三島町)三島上条 猿塚・経塚

 この中で、最も由緒正しいのが中条の乙宝寺。越後八十八ヶ所霊場第38番で、国宝の三重の塔などの宝物が伝わっています。最初に説明した乙寺は、こここそがそうである、といわれています。俗にいう猿供養寺は、今昔物語などの伝説から後から名づけられたもののようです。
 過去、寺が衰退した時にひそかに埋められた仏舎利を平安末期に宮禅師という人が掘り起こし寺を再興した、と縁起にありますが、それ以前の、開基当時の様子などは伝わっていないようです。ただ、仏舎利を収めてあったという心礎の遺構は奈良時代のものとされており、寺の古さを裏付けます。しかしながらそれ以外に特別な遺構が残るわけではなく、そこに大規模な寺院があったと言うには決定打に欠ける物です。
 また、中世の確かな記録もほとんど残っておらず、鎌倉〜室町以前の寺の実態はほとんどわからないのが実際です。

 しかしながらここで気になるのは「三島郡」という地名です。
 そう、ここで大きな問題にぶちあたります。今と現在では郡の境界が違うのです。
 過去、平安、鎌倉に至るまでは三島は古志郡でした。今では山古志にその名前を残すだけですが、本来、長岡一帯を古志と呼んでいました。特に三島の周辺は西古志と呼ばれることもあったようです。
 では三島郡(三嶋とも表記する)はどこを指していたかというと、柏崎を中心とする海沿いの刈羽郡付近をいいました。今でも「三島神社」が西山などに残っています。
 その後、南北朝の時代の文書で三島周辺を「山東郡」とするのを最初として、江戸時代以降にやっと三島は三島郡となります。
 つまり。
 もし、説話を頭から信じるならば、出雲崎以外に場所はなくなってしまうのです。
 江戸時代に著された郷土史の本は、このことを失念しているのではないかと思われます。そう、例の川合清蔵さんも、ぽっくりとだまされてしまった様で・・・。

 地名の事は少し横においといて、乙寺の所在地の伝承をもう少し詳しく紹介していきましょう。

1.そもそも出雲崎の乙茂にあった。近くの神条が「上条」ではなかったか。とすれば「中条」があってもおかしくはない。
2.開基の地は三島・上条であり、その後、北蒲原郡・中条へと移転した。
3.乙寺の開基された場所は中頚城・板倉である。その後、北蒲原・中条へと移った。
4.中頚城・板倉から三島上条に移され、さらに今の北蒲原・中条へ移った。

 以上が色々な資料をまとめた結果ですが、それぞれが複雑に関係していて一筋縄ではいきません。
 ただ、猿供養伝説が絡む時、大体いずれの説でも北蒲原・中条へ移った、としています。

 とりあえず、最初の地といえる、中頚城・板倉の伝承を調べてみると、面白いことがわかりました。

 中頚城郡・板倉町(現・上越市)には「猿供養寺」という集落があるのですが、そこの伝説に、次のようなものがあります。

1.白雉年間(650〜654)に法定寺法浄寺の二寺において、「猿供養伝説」が残っている。ただ、これには生まれ変わり譚はついていない。また、写経してやるのも比丘ではなく僧となっている。ちなみに猿の死因は山芋を掘っていて山崩れにあった、という。その後、供養のため「猿供養寺」を建てたという。
2.「乙寺の猿供養伝説」は「猿供養寺」の縁起譚として元亨釈書に載っている。
3.福因寺という大寺院があった。行基の開基と伝わり、多くの山寺を抱え、「山寺三千坊の乙寺」と称されたという。寺坊の中に乙宝寺、猿供養寺があった。猿供養寺集落には今も猿供養寺と乙宝寺の跡である薬師堂が隣り合わせて残るが、あくまで猿供養の縁起が伝わるのは猿供養寺であり、乙宝寺と混同するのは誤りである
4.建仁元年(1201)、鎌倉幕府への反乱軍に組したために打ち滅ぼされ、山寺三千坊は瓦解。このとき、猿供養寺、乙宝寺も廃絶。移転したとすれば、このときか。

 以上から、この「福因寺」が仏舎利を収めた乙寺であるかどうかは知ることは出来ませんが、重要なのは、乙寺=猿供養寺=乙宝寺ではない、ということです。もちろん、全部ひっくるめて乙寺と言ったのではないかとも考えられます。このあたりの複雑さが、どの寺院の伝説であったか混乱した理由かもしれません。
 また、「猿供養寺」の縁起が一番古い年代で伝わっており、また、生まれ変わり譚がついていないことからも、これがオリジナルの伝承だ、と捉えることも出来るかと思います。後の時代に生まれ変わり譚を追加して、説話としてより完成度の高いものにした、と考えられるわけです。
 はたして、法定寺・法浄寺の伝承、元亨釈書の伝承のどちらが先であったでしょうか?

 さて次に、三島上条の伝承を見てみましょう。

 三島上条の伝説もそれぞれ多少のブレを持っていて一つにまとめるのは難しいのですが、先にあげた4.の説がそれです。
 いわく。最初は頚城でお祭りしていた仏舎利が天暦年間(947〜957)に三島上条に移された。このときに猿塚、経塚の伝説が出来たものである。後、いづれの頃かは明らかではないが、現在の北蒲原・中条に移り、寺号も乙宝寺とした。
 乙寺移転に関して、この言い伝えと板倉の山寺三千坊の乙寺瓦解とは250年の開きがあり、板倉からの移転は疑わざるを得ません。どこで乙宝寺と改称したのかわかれば一番良いのですが、それは明らかではありません。ただ、言い伝えをとれば三島上条に移ってから改称までには200年のブランクがあり、この間に場所を変えたとしても不自然ではないと感じられます。
 また、後の時代に乙寺の跡地とされる場所に「乙子神社」が建てられ、天和検地帳(1683前後)にも社地の記録があります。その後、上条神社に合併されています。やはりここには何らかの寺院があった、と考えるのが自然ではないでしょうか。

 少しこの伝説から離れて、この地域を俯瞰してみましょう。
 三島上条の隣の集落、逆谷に「寛益寺」というお寺があります。こちらも行基の開基と伝えられる古刹ですが、中世には非常に大きなお寺でいくつもの寺坊を抱えていたそうです。また、修験も盛んで修験関係の寺坊も多かったようです。その後、戦国時代から江戸時代にかけてかなり衰退してしまい、残念ながら記録はほとんど残っていませんが、いまでもその名残ではないかと思われる地名や地形、そして塚などが多く残されています。
 このことから考えると、なんらかの寺坊が猿塚・経塚の付近にあったとしても不思議ではありませんし、むしろ、実際に寺坊があったと考える方が自然でしょう。
 もちろん、それが乙寺であったという確証はどこにもありませんが。

 さらにその考え方を進めれば、2.の説のようにそもそも三島上条と板倉の乙宝寺は全く別々の寺である、という説も浮かんでくるわけで、そうなると板倉との言い伝え年代の齟齬も自然消滅してしまいます。
 もちろん、”移転してきた”、とする言い伝えとは真っ向から対立することになりますが・・・。

 少し後先逆になってしまいましたが、では、この伝説を載せている文書の成立ではどうでしょうか。
 この説話を載せている文書は複数ありますが、成立順に、
  『大日本国法華験記』→『今昔物語集』→『古今著聞集』→『元亨釈書』
で、『大日本国法華験記』では生まれ変わりの国司(紀躬高という人)が”三島の乙寺を訪れた”とあり、また、『今昔物語集』には越後に下向したのは承平4年(934)で猿に経を書いてやったのはそれよりも40年前だということになっています。しかし、三島の伝承では頚城から三島に移ったとされるのは天暦年間(947〜957)で、2世代近い齟齬が生じています
 また、この伝説自体も『唐書白猿記』が原典の中国からの輸入品である、というのが実際のようです。

 『大日本国法華験記』、『今昔物語集』は宗教説話で、仏教にはこれだけのご利益がある、ということを説くために著されたものです。そのために、”現実にこれだけの効験があった”という例を列挙しています。しかし、今のアヤシイ広告といっしょで、”実際の事件を正確に記録する”ことが目的ではありません。説話に真実を求めることは出来ません。鵜呑みにすることは非常に危険なのです。
 従って、これ以上この”説話”をいじくり倒しても、真実に近づけようはずはありません。どんなに調べたてても、考古マニアの妄想を膨らませるばかりで、史実がどうであったかという観点からすれば実のあることではありません。

乙寺_29

 さて、帰る前に先ほどスルーした稚児池の方によっていきましょう。
 この池、山の頂にあって流れ込む川もなければ湧き水がある、というわけでもありません。不思議といえば不思議ですが、地質的に水がたまりやすいのでしょうか。この三島には同じように峰の上にある池がいくつかあります。
 この池には、次のような伝説が伝えられています。

 昔、猿塚、経塚の寺僧が法華経を読経していた時、池の表面に稚児が浮かんだ。その稚児はすなわち池の主で蛇体であった。池は経猿両塚の眼下、東北の方角にある。面積は三反歩以上もあろう。

 いつの時代の物かはわかりませんが、なかなか面白い伝承です。
 飾りっ気のないストレートな文章がまた怪しさをかもしだしてます。

乙寺_30

 池の縁をたどって、先ほど見えた猿塚の下の平らな部分まで行けそうです。
 というか、これ、踏みあとでしょうか・・・?

乙寺_31

 振り返って。
 うーん、なかなかイイ感じな雰囲気です。
 蛇の体の子供が浮いてきてもおかしくない感じです。

乙寺_32

 さて、ここがその平らに見えた部分ですが・・・微妙ー。
 平らと言うにはちょっと傾斜が付いていて起伏もあります。畑なら問題ないでしょうけど、建物は無理です。そして上から見たときに感じたほど広さがありません。
 うーん、ここに何か建物があったんじゃないか、という直感はどうやらはずれのようです。

 後から調べてみると、この稚児池の周りには猿塚・経塚のほかにもふたつの塚があるそうで・・・。つまり、この池の回りぐるり、鉄塔の立っていたあたりまで含めて、塚の遺構である、ということです。
 そう、実はあの「尾根状のところ」も塚と塚をつないでいる構造物の一部なのだそうです。通路であったのか、柵であったのかは不明とのことですが・・・。
 そして、この塚を作るために土を削り取った跡が猿塚の横の平らな部分ではないだろうか、ということです。
 確かに何メートルもの大きな塚を作るにはたくさん土がいりますもんね・・・。

 では結局、この塚の群れは何であるのか、と言えば、それは明らかにされていません。

乙寺_37
脇野町の白山原墳塚。
こうした塚は枡形山までの丘陵地帯に線形的に
分布するという。

 三島だけでなく、長岡の丘陵の頂上部などには、多くの塚があります。
 そのほとんどが発掘調査されておらず、築造年代も目的も謎のままです。発掘調査されたものでは、甕や壷と古銭が出ることが多いようで、それといっしょに刀子、古鏡などが見られることもあるようです。たいていの場合、盗掘された跡があって、保存状態もよくないようですが。
 また、西山丘陵周辺では真言宗などの修験が非常に活発で、祭祀用の壇や今に伝えられていない入定塚などもたくさんあるのだろうということです。
 おそらくこの塚もそうした古い塚があとから猿経塚として祭られたものであろうと思われます。

乙寺_33

 帰る途中で見つけた使い捨てカメラの包装。
 使用期限からすれば、使ったのはおそらく去年かおととし。
 こんなところを写真に撮ろうなんていうモノ好きが私以外にもいようとは。

乙寺_34

 さらにおまけでこれはオヤマボクチ。
 葉っぱの裏から綿を採って火口(種火を起こす材料)にするっていうアレです。
 言うほど綿は多くついてないので、かなりがんばって採らないとだと思うのですが・・・。

 さて、旅も最終盤。
 ここからは江戸時代の石碑建立のその後を追っていきましょう。

乙寺_35

 石塔建立後、この塚を供養したいという者があって、近くに庵が建てられました。
 その後、いくどかその位置を移し、三島上条のある場所へと落ち着きました。当初は「猿経庵」と呼ばれていたそうですが、戦後まもなくに妙弘寺と改称した・・・と資料にあります。
 ”その後”を追って訪ねてみました。
 石塔から何とか寺号が読み取れます。また、見えている石塔のひとつはこの猿経庵の庵主の供養塔でした。

 しかしながらそのお寺さんは。

乙寺_36

 ・・・・・・朽ちてます。

 どこかへ移ったという様子ではなく、もう本等に廃寺、といった趣。

 あぁ、これが諸行無常というものか・・・。

 ふとした発見から始まり、郷土史のドツボにはまってしまった今回の探索。
 図書館に通うこと数度、まとまりのない言いたい放題のばらばらな説にクラクラしつつ、探索の何十倍の労力をかけて資料を整理してまとめた文書も写真の何倍もの量になりました。
 その上、できる限り独断を避けようとしたために様々な事実や説を列挙するだけになってしまって、まとまりが悪いことこの上ありません。論文というわけじゃなし、独断と偏見と妄想で、こうだ!と物語に仕立てた方が読みやすいし面白いんでしょうけど・・・。
 果たして読んでいただけるのかどうか。読み飛ばしてもらっても、それなりに筋が通るようにはしてあるつもりですが・・・。

 最後に、現実から抜け出して、ちょっと妄想開始。

 中世、この周辺には寺院が多かったのは事実です。
 そのことから考えると、この伝承の地に何らかの(独立した寺院とは限らない)寺坊があったのは確かでしょう。さらに実際に、頚城・板倉から戦火を逃れてこの大寺院を頼ってきた寺僧があったかもしれません。お経や寺の宝、そして猿供養伝説とともに・・・。

 そして、感銘を受けたのが、ある民俗学の論文集の、「ともかくその頃は猿もたくさんいて・・・」というつぶやきでした。
 なるほど、今このあたりに猿はおらず、またいつからいないのかもはっきりとしません。そもそも、狢や狐はともかく、このあたりに猿がたくさんいたということも、今からすればそう簡単には信じられることじゃありません。
 伝説ばかりでなく、猿までも歴史の闇に葬り去られてしまっているというのは、なかなか暗喩的じゃないですか。

 しかしながら真実はすべからく闇の中。
 真実であろうが嘘であろうが闇の中ではどちらもその正体を見極めることは出来ません。
 ただ等しく闇があるのみ、です。

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