ずいぶん尾根が近づいてきましたが、道はまだいいペースで登り続けます。 この道が昭和63年まで国道として現役だったなんて・・・。
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と、唐突に現れた建物。 さほど古くは無いこれは・・・、と、その反対側を見てみると、パイプなどの遺構。 石油関係か!
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少し休憩もかねて、建物に近づいてみることに。 なんだかテーマパークにでもありそうな門が微妙ないい味を出してます。 もちろん、火気厳禁。 先のプレハブの建物にまでは行きませんでした。時間的にも余裕が無かったし、何よりあんまり面白そうでもなかったので・・・。
後から調べてみると、これはどうやら帝国石油の施設らしいです。 戦後すぐの地図ではこのあたりにはびっしりと建物ややぐらが描かれており、当時の繁栄がしのばれます。 今では地面からのぞくパイプの残骸程度でしかうかがうことは出来ませんが・・・。
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このあたりから勾配が緩やかになり、道は平坦になります。 というよりもこれ以上のぼり様が無い、といったほうが正しいかもしれません。 これ以上登ったら、そのまま峠を越しちゃいそうだ・・・。
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と。 いきなりほぼ正面にトンネルが姿を現しました。 最後の尾根部分だけトンネルになっているようですが、果たして。
そういえば、このトンネル、新潟では有名な心霊スポットだったっけ・・・?
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トンネルの坑門には上部に出っ張りがあるだけで、目立った装飾はありません。しかし逆に、ひさし上の出っ張りのおかげで、シンプルでも上品さがあるように感じます。
トンネルの脇にはさらに上へと伸びる道があるようですが・・・、ものすごく廃道ちっく。油田時代の物か、もしかしたらトンネル以前の旧道なのか・・・。 後で見た地形図上では、ここから尾根部へと登れるようです。
さて、坑門を詳しく見て見ましょう。 扁額はありませんが、竣工年と工事者を記した銘板がはめ込んであります。 そしてよく見ると、コンクリートに埋まるように石垣が少しあります。最初からこういう工事だったのか、それともあとからコンクリートの坑門をつけたのかは定かではありませんが・・・。
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ではおじゃましまーす。 トンネル内部はコンクリート吹きつけですが、ところどころ剥落もあるようで、状態はあまりよくないようです。 こすったような痕もありますね・・・。 隧道データによると、トンネル名は「榎隧道」、トンネルはあまり長くなく、91.0m。幅員4.7m、高さ4.2m。そんなに広いかな・・・? 天井には照明施設の跡(たぶん蛍光灯)がありますが、全て撤去されています。 しかし、さっきから、手前と奥でだいぶ様子が違うようですが・・・?
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と、急に広くなります。 その上、こちらはきちんとした捲き立て。 これは一体・・・?
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振り返ってみると・・・、何かいるぅぅ! 反射板でまるで顔のように見えますが、どういうわけかそこで一段狭まっています。壁面の処理も大違い。 これは一体どういうこと・・・?!
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出口付近から振り返って。 目玉がよく見えています。・・・が、狭まっているとは初めてなら思わないだろうなぁ・・・。 手前(栃尾)側はすれ違いが何とかできる程度の広さがありますが、奥(長岡側)は一台で精一杯。同じトンネルなのに、何でこんな事に・・・。
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ひとまず反対側へ。 置いてあるガードはおそらく路肩注意、というものではないかと思います。 坑門そのものも多少違いが見られ、こちらの方がどっしりしています。そしてこちらには扁額が掛かっています。「比礼隧道」・・・?「榎隧道」じゃなくて? そして竣工年月日も・・・、食い違ってる!入り口では昭和28年だった物が、こちらでは昭和33年になってます。
これについて改めて調べてみると、旧栃尾市の広報から、昭和33年10月号に、「栃尾〜長岡線 比礼トンネル完成」という記事があります。 それによると、長岡側では昭和28年にコンクリート捲き立てが完成していたにもかかわらず、栃尾側は昭和33年10月末にやっとコンクリート捲き立てが完成した、ということです。それまでは木枠だったとか。この当時から長岡側33.5メートルの幅員が3.6メートル、栃尾側55メートルは幅員5メートルと大きな差があります。しかも、長岡側のコンクリート捲き立ては旧荷頃村が行った、とかかれています。 つまり。 長岡側は村を挙げて作り、半分は木枠のままでおそらく幅員も狭かったが、後に、拡幅されてきれいに捲き立てた・・・と。当時としては幅員3.6メートルでも十分、ということで、あえて全部掘り直しはしなかったんでしょうね・・・。 また、名称に関しては、栃尾市史に「比礼榎ノ木隧道」という表記があり、ふたつの別々のトンネルがつながっている、というのが正確なところなのでしょう。 何故そうなってしまったのかについては明らかではありませんが・・・。 それにしても・・・、木枠って・・・。色々肌が粟立ちます・・・。
でも、それでなんで心霊スポットなんでしょうね?確かに色々変だし雰囲気満点ではあるのですが。 記録には取り立てて何も無いのですが・・・新聞を片っ端から当たれば死亡事故ぐらいあるかもしれません。・・・構造上、事故は多そうですからね。
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トンネルを抜けて。 真正面に守門岳がそびえ、雄大な景色が広がります。
でも・・・何か見える?
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トンネルの右端にある妙な構造物があるのに気付き、引き返して近づいてみると・・・。 なんでしょう、これは?中は土で埋まっていて穴といえるほど空間はありません。お地蔵さんが収まっていたらすごく違和感が無い感じですが・・・。 そして視線を右側に移すと・・・道?!使われなくなってもう10年以上経つのではないかと思うのですが、もしかして旧道・・・?もしくは油田へと通じる道か・・・。 トンネルをはさんで反対方向にも尾根へと続く道が。 ・・・どっちかがトンネルを入る前に見たわき道へと続いているんでしょうか・・・いや、両方が通じているのかも。
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しばらく進んでトンネルのを抜けたのに上り坂かー!!と憤慨しつつ振り向いたら・・・やぐらが立ってる。 尾根上にいくつか見えます。 まだやぐらが立ってたなんて・・・。先ほどの自然に帰っていた道はあそこに通じているんでしょうか。 いつか、あそこにも行きたいな・・・。
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しばらく行くと、分かれ道。 正解は右なのですが、ついついここで左の道へ・・・。
ちなみにこの先で軽井沢への道が分かれていきます。
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私が選んだコンクリート敷きの道はショートカットになっていたようで、すぐに旧道に復帰。 それにしても雄大な景色だ・・・。
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峠部分とは比べ物にならないゆったりした、2車線確保された部分もある坂道を下ると、まもなく現道へと合流します。 この青看板はその合流地点の物。右方向が榎峠ですが、やっぱり峠が越えられるような表記はされていません。
新トンネルですが、やはりというか、この地域らしく、難工事になりました。 その原因が油田地帯という特殊性と、そして超膨張性地山という地質。開通までに16年を要しています。
帰りは快適すぎて自転車には恐怖の、この351号線を、栃尾へと向かいました。
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旧道はここで現道と接続する・・・のですが、家に帰ってから調べてみると、一概にそうとは言えない、ということが判明しました。 確かに、一時期の国道の旧道としてはそれで正しいのですが、それ以前の、国道に指定される前の県道時代はまた別のルートであった、ということが、調べていくうちに分かりました。
赤が現在の国道351号線「栃尾・長岡快速道路」、青が今回たどった旧道。 灰色は県道9号長岡栃尾巻線。 薄青が本当の旧道区間。
青が国道指定時の路線図。水色は旧道と「栃尾・長岡快速道路」区間の重複部分。 紫はその後の延伸区間。 赤は榎トンネル開通時の国道。 オレンジ部分は市街へのバイパス部分。最終段階。 非常にややこしい。
榎峠は東山油田の発展とともに、資材搬入のために道が作られたということで、それ以前は人がなんとか通れる程度の道であったとのことです。 そして戦後、この351号線が造られる以前、栃尾から長岡への交通は榎峠の北に県道栃尾田井線(現・県道138号線)・桑探峠、南に県道長岡栃尾加茂線(現・県道9号長岡栃尾巻線)・森立峠が主でした。当初、もっとも緩やかな桑探峠の改良が進められましたが、長岡市街から離れた位置に出てしまうため、直接長岡へと出られる道が計画されました。 それが昭和47年に計画された「夢の快速道路」、「栃尾・長岡快速道路」、今の315号線です。県道北荷頃・長岡線を改良し、途中から当時建設が進められていた長岡東バイパスに新道で接続する計画でした。 計画した時点では昭和51年完成予定でしたが、トンネル工事が難航し、昭和50年、先に完成していた栃尾・長岡快速道路の栃尾側の区間と県道北荷頃・長岡線をつなげて国道351号線の指定を受けました。 その後、昭和63年に新榎トンネルが開通。しかしこの時点ではまだ北荷頃―栃尾間のバイパス工事は終了しておらず、全区間の工事が完了したのは平成3年でした。 以上をまとめると、比礼榎ノ木隧道が国道として利用されていたのは、昭和50年から63年の13年間ということになります。開通から22年、旧道化してから19年。応急処置じゃないれっきとした旧国道なのに旧国道の期間が短い、実に不思議なトンネルです。
※以上は、様々な資料から私が独自に推測した道路の変遷です。間違いもあるかと思われます。間違いに気が付かれた方、また、より詳しい情報をお持ちの方、びしばし教えていただけるとうれしいです。
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